

1930







1940

苦難の続く時代、この青年たちのひたむきな熱意に温かい声援を惜しまなかった人々もいました。中でも岩田愛之助氏(後、常任理事)からは、終始変わらぬ助力と激励がありました。松尾忠二郎氏もその一人でした。この松尾氏からは保有していた多磨墓地東方の山林を新校地として提供していただきました。
昭和14年12月8日、ここで地鎮祭が行われ、翌、昭和15年3月25日、岩田常任理事が寄贈した新校舎と、日輪舎が完成しました。この日輪舎は、学生たちが加藤完治氏の指導していた内原訓練所を見学し、学生自身の手で研究、設計、建築し、自分たちの寮としたものでした。机も椅子もすベて、学生たちの手で作られました。

1940

昭和15年11月11日、興亜専門学校の設立を目的として財団法人興亜協会の設立が議せられ、その役員には、菊池武夫理事長(当時貴族院議員)、岩田愛之助常任理事、太田耕造理事、松尾忠二郎理事(当時播磨造船株式会社社長)、副島義一理事(法学博士)ら12人が就任することとなりました。
翌年4月8日、当時の「東京府北多摩郡武蔵野町字上水南」の地、つまり現在地(東京都武蔵野市)に、全塾制の独特の校風をもつ旧制専門学校として、興亜専門学校が開設されました。



1941

亜細亜大学の前身は、昭和16年4月に開設された興亜専門学校に始まります。この興亜専門学校が、昭和20年11月、日本経済専門学校と校名を変更し、さらに学制改革に伴い、昭和25年、日本経済短期大学に改組、同短期大学の第一部(昼間部)を母体として、昭和30年4月、新たに亜細亜大学が設置されました。日本経済短期大学は、平成5年4月、亜細亜大学短期大学部と名称を変更しました。






1945

昭和20年9月25日、終戦に伴い本学の将来に関する方針を決める理事会が開かれました。学校の解散を主張する意見と存続論とが激しく衝突しましたが、存続することに決定。校名は日本経済専門学校と改称、学科は、大陸科(旧満蒙支科)、南洋科を廃し、内地科を拡充して経済科とすることとなりました。理事長•校長に、興亜専門学校の設立者の一人で、鈴木貫太郎内閣(終戦時の内閣)の文部大臣であった太田耕造理事が推されて就任することになり、11月1日、文部省に認可されました。






1950

昭和25年5月4日、日本経済短期大学が笹森順造学長(元国務大臣)、鍬塚巌理事長の就任を得て発足。経営科、貿易科の二科の、それぞれ第一部、第二部が同時に開設されました。
私立学校法の定めにしたがい、昭和26年3月、本学園も財団法人日本経済専門学校から学校法人猶興学園へと改組されました。
しかし少ない在籍学生数での自力経営は容易なものではありませんでした。





1954

昭和28年9月19日に開催された理事会で、香港で募集された中国系子弟96人の留学生を受入れる決議がなされました。留学生寮、食堂の用意、また寄附行為変更、入国許可証の下付願等々、大急ぎで受け入れ準備が進められました。昭和28年12月26曰付で入国許可がおり、準備が完了。
昭和29年1月25日、香港からの留学生の第一陣が、フランス船べトナム号で横浜港に入港。その2日後、大学で入学式が行われました。
笹森学長の挨拶の後、留学生代表が「国父孫文は、かつて日本の世話になった。また、烏居奄蔵博士は長く中国にあって、われわれの先輩を指導してくれた。中日文化の提携こそアジアを興すものと信ずる」と挨拶しました。この留学生部の専任教員に就任した柳内滋講師は、彼らを迎えて次のように詠いました(一部を抜粋)。
若き友よ!同志よ!
民族の使命を身に受けて
遠く三つの海を渡ってきた若者達よ
真夏の太陽のように
烈々の大志に燃えよ
夜空に輝く星のように
祖国の行手を照らすのだ
こうした留学生の受け入れは、戦後の日本の留学生教育に先鞭をつけるものでした。



1955

昭和29年5月7日、太田耕造理事が学長兼理事長に就任しました。この時に、学校法人猶興学園は学校法人亜細亜学園と改称され、2週間後の5月20日の理事会で、亜細亜大学設置の決議が行われました。
続いて教員組織、施設整備などさまざまな課題を克服し、昭和30年3月30日付をもって亜細亜大学商学部商学科の設置が認可されました。同時に、日本経済短期大学は、第二部の経営科のみを残して、第一部の経営科、貿易科、第二部の貿易科を廃止することになりました。




1957

昭和32年2月28日、待望の本館(鉄筋コンクリート3階建)が竣工しました。これと同時に、従来、防火用コンクリート貯水土管を3個重ね、コンクリートで塗り固めて門柱の代わりにした正門が、五島慶太理事長愛蔵の一本造りの御影石の門柱に代わりました。これが現在の正門の門柱です。

1957

昭和32年2月、太田学長は東南アジア歴訪の折、香港において年来の同志である新亜書院の銭穆院長と会い、本学との交換留学生制度の協定締結を果たしました。そして翌33年6月には、双方から2人ずつの留学生が交換されたのです。
昭和35年3月、アジア各国を歴訪した際は、インドのネルー首相やエジプトのナセル大統領らと会談しました。その帰途、太田学長は再度、新亜書院に立ち寄り、同校で約一時間にわたって講演し、両校間の親善ならびにその発展に尽力しました。









1964

経済学部経済学科は商学部経済学科を拡充昇格させたもので、39年4月に開設されました。
続いて、法学部法律学科が昭和41年に開設されました。
この学部設置の続いた時期には、2号館(昭和40年)、1号館と旧3号館(昭和41年)、学生食堂(昭和42年)、体育館(昭和43年)、旧図書館(昭和44年)と、次々と施設の建設が進められました。





1966

昭和41年10月6日、ついに亜細亜大学硬式野球部が東都大学野球1部リーグ戦で優勝の栄冠に輝きました。この日は、神宮球場で駒澤大学との一戦。延長11回の激闘を制しての勝利でした。
試合は大橋穣遊撃手(のちに東映フライヤーズ)の決勝ホームランで決着したのでした。
昭和39年秋のリーグ戦での一部昇格から5シーズン目での優勝でした。この時、神宮球場では矢野監督の体が何度も宙に舞いました。
今も本学硬式野球部は、「東都の雄」として、活躍しています。





1968

学生の中からアジア研究に対する熱意が高まり、昭和37年2月に南西アジア学術踏査隊がインドへ向けて出発しました。これは43年、45年に実施された第1次、第2次アジア・ハィウェイ学術踏査隊に先駆けるものでした。
さらに、39年11月には5人から成る学生ボルネオ学術調査隊が出発しています。



1969

新入生が大学生活になじみ、大学の建学精神を一日でも早く理解するために、学友会の要望もあり、フレッシュマン・オリエンテーション・キャンプ(FOC)が企画されました。昭和44年5月、第1回FOCは、学部が千葉県岩井海岸において、短大が多摩御嶽山において、それぞれ行いました。一泊二日、参加者は合計330人でした。その後、山中湖で全学で実施されるようになりました。
これが、現在行われている「出会いの広場」の始まりです。

1969

過激な学生運動、大学紛争の嵐が日本中の大学を席捲した時期がありました。それは日本社会の体制を根本的に変革しようとする政治運動でした。太田学長は、この学生運動を憂慮し、昭和44年5月31日の全学専任教員会議において、「大学問題に関する基本方針」と題する所信を表明しました。
これが根底となり本学はその後、不動の態度を堅持し、紛争のために授業を取り止めるようなことは一度もなく、教育と研究という大学本来の目的を堅持したのでした。本学の姿勢を周知するため、広報紙「THE ASIA」(現「広報アジア」)の発行が開始されました。

1969

昭和44年8月、第1回洋上大学が実施されました。洋上大学は、学生が派遣国と、その国に関する研修テーマを決めて行う海外研修。初めての企画で危ぶまれもしましたが、周到な準備のもとに、教員2人、学生40人が12日間にわたってタイ、マレーシア、シンガポールを回り、研修しました。以来今日まで、毎年行われています。
海外研修は、その後もますます活発となり、学友会の企画としては、洋上大学のほか、韓国研修団、中華民国研修団、アメリカ語学研修団などが実施されました。











1976

昭和51年、「日本およびアジアにおける文化社会の研究とその建設的実践」に挺身する人材の育成という建学の使命を果すには、さらに飛躍しなければならないとして、国際関係学部の設置が議せられ、経済学部の中に、国際関係学科を設置することとなりました。この結果、昭和51年に経済学部に国際関係学科を併設、さらに昭和49年に開設した経営・経済・法の各大学院修士課程に博士課程を開設しました。
なお同年には、総合研究館が竣工(9月)しました。




1978

初の海外演奏会の翌年となる昭和51年、創立12年にしていよいよ全国日本吹奏楽コンクール大会への出場を叶えました。その翌年も全国大会に出場しましたが、 僅か2秒タイムオーバーのため失格となりました。
そして昭和53年、念願の全国大会金賞を受賞しました。吹奏楽団は、これ以降も、コンクール、アンサンブルコンテストなど高い評価を受けています。








1994

創立50周年記念事業の一環として進められてきた、太田耕造記念館新築工事が無事終了し、平成6年3月30日にその竣工式が行われました。
太田耕造記念館は、図書館としての機能を備え、その他1階には学園史展示室、2階には情報システム課、8階には青々会館があり、現在も情報教育と、情報発信の施設として活用されています。

1994

平成6年4月に行われた関東大学テニスリーグ戦で、硬式テニス部が優勝。これをはじめに、この年は全日本学生テニス選手権大会シングルスと全日本テニス選手権男子ダブルスで優勝するなど活躍しました。
そして11月7日まで行われた全日本大学テニス王座決定試合、ついに初出場で初優勝し、学生王座に輝きました。シングルス6試合、ダブルス3試合の9試合で全国の競合が熱戦を展開する同大会、準決勝の対近畿大学には9-0で勝利、決勝では日本大学にシングルス4-2、ダブルス2-1の合計6-3で勝利し、優勝を決めました。





1997

平成9年12月、それまで学生選手権大会での優勝を重ねてきたセパ・タクロー愛好会(現セパタクロー部)が全日本選手権大会に出場、初優勝し日本一の栄冠に輝きました。
優勝メンバーの一人、寺本進氏は卒業後、アジア大会の出場、タイのプロリーグで活躍するとともに競技の普及、発展に貢献。日本スポーツプレス協会が推薦する2014年最も輝いた人物として「第8回AJPS AWARD 2014」を受賞しました。
本学セパタクロー部は、日本でも草分け的存在。左上は初代セパタクロー日本協会会長を務めた衞藤瀋吉元本学学長に選手宣誓するシーン。




1999

世界最高峰サガルマータ(エベレストのネパール名)登頂に挑戦していた、国際関係学部4年生の野口健君が、平成11年5月13日、3度目の挑戦でついに世界の頂点にその足跡をしるしました。世界最高峰登頂だけでなく、世界七大陸最高峰登頂の最年少記録を樹立。自分を信じて努力すれば夢は実現するということを、まさに身をもって証明した活躍でした。

1999

平成11年9月21日、台湾を未曽有の大地震が襲いました。台湾とは、昭和52年に学術文化交流協定を締結した淡江大学との交流をはじめ、千人を超える卒業生、数多くの留学生が在籍しているなど、つながりは深いものがあります。
学生、教職員自ら、「台湾大震災救援ボランティア隊」を結成し、第3次隊まで延べ135人が現地で各1週間のボランティア活動に従事しました。寝袋での生活に、トイレ、風呂なしという環境の中、ただ被災者の人たちの手助けになりたいとの一念だけで活動に参加した精神は、本学の建学精神の具現化といえます。








2004

中国で学び、ビジネスの現場を知る産学連携のキャリア開発プログラムとして「アジア夢カレッジ」を開講しました。入学後に2回にわたり行われた選抜試験の結果、合計30人の第1期生が各学部から誕生しました。
なおアジア夢カレッジは、文部科学省平成16年度現代的教育ニーズ取り組み支援プログラムで、「人材交流による産学連携教育」のテーマ部門で選定されました。





2006

平成16年1月2日、3日に行われた第82回東京箱根間往復大学駅伝競走で29回目の出場にして初の快挙でした。往路6位からの逆転での総合優勝は、長い歴史のある箱根駅伝でも初めて。目まぐるしく順位が変わったレース展開の中、7区で5位に、8区では2位に順位を上げた本学は、9区でトップに立つと、10区も安定した走りをみせ、そのまま大手町のゴールに飛び込みました。1月11日に学内で優勝報告会を、夕方には大学と武蔵境駅の間で優勝パレードが行われ、箱根駅伝優勝の偉業を学生、教職員、市民の皆様とともに祝いました。






2012

平成24年4月、国際関係学部に多文化コミュニケーション学科を開設しました。多様な文化を理解し多文化間をつなぐコミュニケーション能力を持った人材ニーズに応えるためです。
さらにこの年、文部科学省の平成24年度グローバル人材育成推進事業に、国際関係学部の「行動力あるアジアグローバル人材の育成」事業が選ばれました。





2014

留学生を受け入れるプログラム「亜細亜大学ジャパンプログラム(AUJP)」が、実施されました。期間は8月20日から9月9日までの3週間。協定校であるインドネシアのアル・アズハル大学(ジャカルタ)から9人の留学生が来学しました。留学生は学内で日本語の授業を受け、フィールドスタディーや、ホームビジットなどのプログラムをとおして実践的な日本語と文化を学びました。





2016

平成28年4月、5番目の学部となる都市創造学部都市創造学科を開設しました。同学部では、都市社会学、産業社会と企業経営、社会調査概論、ビッグデータ活用概論などの専門科目を開講します。卒業時の卒業プロジェクトなど、フィールドワークを重視したアクティブ・ラーニングに取り組む他、2年次後期には、中国、韓国、タイ、ベトナム、インドネシア、アメリカのいずれかの国で、英語と現地語を学習。さらに現地でのインターンシップに取り組みます。
2016

昭和16年4月、前身である興亜専門学校の創設から数えて75周年を迎えました。
創立75周年記念事業として、記念式典・祝賀会の開催、アジア学長フォーラム、学園史展示室リニューアル、記念事業募金、吹奏楽団海外公演の5事業を実施しました。

