戻る今はもう〝あたりまえ〟になっていることを、あらためて見つめてみる

日本政府観光局によれば、2014年に日本を訪れた外国人は1341万4000人(推計値)、前年比29.4%、約300万人増加し、過去最高を記録したという。2015年2月時点の東京都の人口が1339万人強(東京都総務局統計部による/推計値)とのことだから、これはすごい数だ。

実際、現在、日本で生活する人たちの多くは(もちろん私も含めて)、街でさまざまな外国語が飛び交うのを耳にしたり、日々の買い物で外国人の店員さんに応対してもらったり、ガイドブックや携帯端末を手に行き先を探している外国人観光客に外国語で道をきかれたり――などという経験を、多かれ少なかれ持つはずだ。だが、これらを〝あたりまえ〟のこととしてあっさり受け入れるとともに、ちょっと立ち止まって見つめ直してみることも重要と思う。というのも、この状況にはうっかりはまり込むと恐ろしいことになるさまざまな〝落とし穴〟について意識するための〝タネ〟がひそんでいるからだ。

代表的な〝落とし穴〟としては、多くの社会では主流とされる文化や価値観とそうでないものとが併存するが、そうすると、主流側によるマイナーな側に対する同化の強制という事態がともすれば生じる、というものだ。一方、やっかいなことには、異なる文化や価値観を尊重するという一見何の問題もなさそうな考え方に立ったとしても、注意していないとその名目のもと、〝こっちには立ち入るな、立ち入ってきたら力ずくで排除する〟〝文化のちがいは本質的なものだから、生活空間は厳格に隔てておくべきだ〟といった偏狭な姿勢や言動にいたる危険も実はある。また、外国からの来訪者をもてなそうという〝善意〟に発した行動も、個々の事情に目を凝らし、各々の意向に耳を傾け、それぞれちがう望むこと望まぬことを正しくくみ取らなければ、すぐにただの独善や自己満足に陥る。

ちがいを認め、理解し、受け入れていくのはむずかしい。それは変わることを促すものだし、変わることよりも変わらないことを選ぶ方が、多くの場合楽だからだ。けれども、ちがうもの同士の関わり合いをそれとして受けとめ、そこから生じる変容の可能性をひとまず肯定し、実際に少しずつ変わっていくことの中に新しい価値を認めていったそのプロセスの上に、私たちは今、食堂で和風ハンバーグ定食を味わい、出かける時に着ていく洋服について悩み、外国旅行をきっかけに日常生活では縁遠くなっていた旧来の慣習や文物の面白さに気づき、あるアジアンポップスのアーティストを動画サイトで発見し大ファンになる、などといった行動を、ごく自然に行なえているのだろうと思う。そして、そうした〝あたりまえ〟となっているものの姿や来歴や意味を、講義や討論や留学や学生生活などを通して捉え直し、知り、考えるための場の一つとして大学というものがあるのだと、あらためて思う。


 

大野 亮司(国際関係学部 国際関係学科  准教授)

〈2015年3月26日更新〉