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△リヨン古代ローマ劇場

△リヨン・リュミエール記念碑

△富岡製糸場ブリュナ館

先日、フランス中部の都市リヨンへ行った。約2000年前にローマ人によって作られた植民都市のリヨンには、劇場などのローマ時代の遺跡が残る。中世以降は絹織物と印刷業が盛んな産業都市となった。中世の街並みを残す旧市街地は、1998年、「リヨン歴史地区」として世界遺産に登録された。リヨンは絹織物の街としてだけではなく、映画の「聖地」としても有名である。リヨン出身のリュミエール兄弟が最初に映画を上映したからである。
 
オーギュストとルイのリュミエール兄弟が作った映画はシネマトグラフと呼ばれた。映画が存在しなかった当時、映画(cinema、movie)という言葉もなかったため、ギリシア語のシネマト(動き)とグラフ(映像)を合わせたシネマトグラフという言葉も作られたのである。リュミエール兄弟の父親アントワーヌは写真家であり、写真乾板の工場を設立した。兄弟は若い頃から父親の仕事を手伝い、工場は300人の労働者を抱えるほどに成長した。アントワーヌは、1894年にエジソンが発明したキネトスコープ(のぞき式の動画)に感銘を受け、シネマトグラフの発明を息子たちに託した。兄弟は工場の門から出てくる様々な人びとを撮影した映像を、1895年、『工場の出口』としてパリで上映した。
 
リヨンは産業都市として栄えたが、フランス革命後は一時的に産業が衰退した。19世紀、ジャカード織機の発明によってそれまでの手織り生産から機械生産へ移り、リヨンは再び絹織物の街として活気づいた。しかし、19世紀半ば、蚕の病気がヨーロッパ中に広まり、リヨンでは深刻な生糸不足に悩まされた。ちょうどその頃、1858年、日米修好通商条約(安政五ヶ国条約)によって開国したばかりの日本において、生糸は主要な輸出品であったため、リヨンにも日本製の生糸が輸入されたのだった。
 
日本製生糸はいくらでも売れたため、大量に生産され、結果として品質の低下を招いた。生糸の価格は下落し、明治初期、生糸輸出は深刻な不況に陥った。明治政府は日本製生糸の評判がさらに低下することを恐れ、官営工場で生糸を生産し、品質を一定に保つことを決めた。そこで、1870(明治3)年、横浜のフランス商会のポール・ブリュナ(1840~1908)に工場建設と経営を委ね、1872(明治5)年に日本初の官営工場、富岡製糸場を開業させた。ブリュナは絹織物の街リヨンの出身であった。
 
富岡製糸場の首長としてブリュナは妻と娘二人で富岡製糸場に3年間暮らした。ブリュナ一家が暮らしたブリュナ館は現在も残り、世界遺産の富岡製糸場の一構成資産である。アジアの植民地によく見られるバルコニーは、アジアの暑さと湿気を避けるためであったという。
 
リヨンに旅行できるというのもグローバル化の恩恵であるが、さらに、意外なところでつながっているという発見もグローバル化の恩恵の一つだといえる。

高山 陽子(国際関係学部多文化コミュニケーション学科  准教授)

〈2016年4月27日更新〉