戻る私のグローバル-途上国開発の仕事を通じて

私の専門は開発人類学である。途上国の開発援助において、現地の社会や文化を理解し、現地に適合したプロジェクトを実施するにはどうしたらよいか?ということを考えている。

フィールドであるフィリピンのボホール島の農村調査で見えてくるのはフィリピン社会の素晴らしさと厳しい貧困の状況である。ボホールの人々は本当に優しい。村を訪問すると外国人の私に対して人々はいつも笑顔で迎えてくれた。ホスピタリティという言葉で表されるように、お客さんを思い遣る心の暖かさが感じられる。村の中においてもボホールの人々は本当に良く助け合っている。そこには日本ではすでに失われつつある社会の温かさとゆとりが今も保たれているように思う。独り暮らしの高齢者の孤独死など無縁の世界である。

このようにフィリピン、とりわけボホールの社会は私を魅了してやまないが、同時に見えてきたのは人々の極度の貧困だった。フィリピンの人は貧しくても底抜けに明るい、とよく言われるが、その明るさは私には諦めから来るものもあるように思えた。私が行っていたボホールの村のAさんという女性は自分の家を観葉植物やランの花で飾り、身ぎれいに暮らしている。しかし、Aさんの生活はひどく貧しいのである。ご主人は永い間病気に煩わされて働くことができず、Aさんの収入のみに頼っている。しかしAさん一家はほとんど水田を持っていないため、彼女は毎日村の数軒の地主の水田で田植え、草取り、稲刈りなどをして日当を得る暮らしをしている。一日水田で働いて得られる日当は当時でわずか100ペソ、日本円で300円ほどだった。それだけでは夫と子供たちを養うことはできないので、彼女はさらに空き缶やペットボトルを村の中で拾い集め、町までバスに乗って運び、町の市場でそれらを売って生計の足しにしていた。ペットボトルを一本売って彼女が得る収益は当時で1ペソ、約3円に過ぎなかった。そのほか、家の庭のバナナを揚げてフライにし、小学校でおやつとして売ることもしている。そのように働いても毎日の食費にやっと間に合う程度である。しかもAさんは病気が悪化したご主人の薬を買うために村の高利貸しから借金をし、返済のために水田で取れた米を収穫直後に全部渡すことを数年間続けていた。高利貸に渡した米の価格を考えるとすでに元金の3倍以上の利子を払っていることになっているが、Aさんによると毎年払う米は利子の分にしか相当せず、元金を返さないとこの借金契約は終わらないので、これからも毎年米を払い続けなければいけない、と言うのだった。聴き取り調査の間、私は思わずため息をついてしまった。Aさんは外見は穏やかで優しそうな顔をしている。近所の人の評判では仕事でもまじめに働く良い人だということだった。しかしその生活は働いても働いても借金から逃れられない苦しい毎日だった。

日本であったら不条理と感じるような状況に対して「仕方ない」という言葉で諦めている人々の姿を見ると、技術的な解決方法を持たず、調査しかできない自分は何とももどかしく感じた。ボホールをはじめとするフィリピンの農業の不振と人々の貧困はこの国の大土地所有制度と貧富の格差に大きな原因があると考えられる。その上に、フィリピン政府の社会保障制度の不備や農業支援制度の予算不足、農業技術者の不足、インフラの不備、それぞれの農家の資金不足、技術的知識の不足などがあいまって、天災や犯罪による被害をもろに被ってしまう脆弱な状況が生み出されてしまう。人々の笑顔と優しさの影には努力しても良くなっていかない生活への深い諦めがあるように思えた。

開発援助において、文化人類学者は農村調査を通じて相手の社会文化の特徴を明らかにすることはできるが、その社会が抱える農業などの技術的な問題点を解決することは難しい。当然ながら相手の抱える問題を解決できる技術者との協力連携が不可欠である。農村の人々の実状をできるだけ正確に把握し、それを技術の専門家に伝える。その上で、人々の問題を解決するために現地に最も適した方法を共に考える。質の高い援助を行うため、技術者と人々との橋渡しの役割が人類学者には求められていると思う。

角田 宇子 (国際関係学部国際関係学科 教授)

〈2016年7月19日更新〉