わたしと亜細亜大学(卒業生)
色あせることのない思い出と共に積み上げられた、亜細亜大学80年の歴史。
「わたしと亜細亜大学」では、歴代学長や卒業生が亜細亜大学での思い出深い場所や出来事などについて語ります。
渋谷ザニーからのメッセージ

在学中は、国際関係論や政治学を専門とする伊藤裕子先生のゼミに在籍していました。当時私はファッション雑誌でモデルをしていたこともあって、撮影日と授業が重なると欠席することもありました。その際は友人たちからノートを借りたり、図書館を利用して友人たちから授業内容について教わったりすることもありました。ノートパソコンを常に持ち歩いて、撮影の移動中や授業の合間に論文を作成し、日々大学の授業について行くことに一所懸命でした。
専攻していたゼミでは「アメリカ外交」を学びました。また、ゼミの活動を通して身につけた資料収集のスキルや企画の立案、プレゼンテーションを行うにあたってのマナーなどのアビリティは37歳となった今日でも本業で生かされており、さまざまな経歴を持つ方々と共に活動した際も引けを取らないと自負しています。
大学在学中から期日を決め、目標を決め、実現するための計画性を持って活動してきました。今後は、大学生であった自分自身が自慢に思える40代になれるよう、継続して活動していけたらと希望しています。
フル・ムーン基金について【渋谷ザニーからのメッセージ】
2021年2月1日にミャンマーで発生した軍事クーデターにより、軍の人々による無差別な発砲や、暴力が市民を脅かしてきました。それに加え、新型コロナウイルス蔓延による被害もミャンマーで大変深刻な状況です。
そんな中、私とファッション業界の仲間で2021年4月27日満月の日に、「満月の光でミャンマーの闇を隅々まで照らしたい」と願いを込め「フル・ムーン基金」を立ち上げました。
「フル・ムーン基金」では、軍事クーデターの影響により起こったミャンマー現地での食糧支援や住居支援、新型コロナウイルスの影響により、酸素ボンベ不足に陥ってしまった現地の医療支援など、多岐に渡り支援をしてまいりました。また、軍事クーデターの影響で学校に通うことが、ままならなくなってしまった子どもたちへ「明日への生きる希望となるように」と日本語教育の支援も行っております。
国連UNHCR協会とも連携をし、支援を必要とする人々に着実に届くための活動を基金の立ち上げ当初より心がけています。
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プロフィール
- 渋谷 ザニー(しぶや ざにー)
- 1985年1月1日生まれ、ミャンマー/ヤンゴン出身。
1993年7月、8歳の時政治的な弾圧から逃れ家族と共に日本に亡命。
2007年3月、亜細亜大学国際関係学部国際関係学科卒業。
2011年11月、ファッションブランド「ZARNY」を創設。
2012年9月、日本へ帰化し日本国籍を取得。
2021年4月、弾圧下のミャンマー国民の生活を支援するため、「フル・ムーン基金」を立ち上げる。

在学中はAUAPに参加しウェスタンワシントン大学へ留学した(2004年)

2011年1月には自身のファッションブランド「ZARNY」を立ち上げ、ブライダルコレクションなどを展開している
郡司 真里からのメッセージ

現在私は、日本野球機構(NPB)でプロ野球の審判員を務めています。
留学、スポーツ、個性を伸ばす、そして何より自分の夢を追いかけられる大学だと思い亜細亜大学に進学し、軟式野球部で選手としてプレーする傍ら、審判員になるという夢に向かって学外組織で審判の経験を積んでいました。
一方で、大学2年の後期にはAUAP(※1)に参加しました。海外が初めてだった私にとって人生のビッグイベントとなりました。現地ではメジャーリーグの試合を観戦する機会があり、肌で”Baseball”を感じ、空気感に圧倒されました。
留学先のウェスタンワシントン大学(※2)では、現地の先生や学生達が「とにかく失敗を恐れずに、勇気を持ってトライしよう」と鼓舞してくれたおかげで、語学学習や現地での生活が充実したものとなりました。また、彼らのハングリー精神や明確な目的を持って取り組む姿勢から、大きな刺激を受けました。留学先での経験が後押しとなり、帰国後も審判員になるための努力を続けることができました。
今後の目標としては近い将来、家族や今まで支えて下さった方々に一日でも早く一軍の試合で審判をする姿を見てもらう事です。その日が来るまでは絶対に諦めません。辛抱強く一日一日を大切に積み重ねて行きたいと思います。
そして、野球界で必要とされる審判員となれるよう今後も精進します。
- 亜細亜大学アメリカプログラム(Asia University America Program)
1988年にスタートした本学の伝統と実績のあるアメリカ留学プログラム。「生きた英語の習得」と「異文化理解」、そして「自己の新発見」を主目的とした独自の留学制度で、キャリア開発にも力を入れている。これまでに14,000人以上の学生が参加。 - アメリカ・ワシントン州ベリンガムにある公立の総合大学。周囲を山や湖に囲まれた自然豊かなキャンパスが特徴であり、200以上の専攻をもつ。課外活動も活発で250以上の学生団体が活動している。在学生数は約15,000名。
プロフィール
- 郡司 真里(ぐんじ まさと)
- プロ野球審判員
2014年、国際関係学部に入学。
大学4年次にプロ野球審判員に応募し、NPBアンパイア・スクールを経て2018年、研修審判員として合格。2019年に育成審判員となり、2022年からは一軍公式戦にも出場できるNPB審判員として活躍中。

22年から一軍戦出場資格のある本契約をつかんだ

高校時代に紅白戦で審判を経験したことが転機となった
林 滉大からのメッセージ

4年間の大学生活を通して、亜細亜大学に入学して本当に良かったと心から思っています。
入学前は障がい学生への支援を積極的に行っている大学だと知らずにいましたが、手話の授業や講座、ピアサポート(※1)など、自分にとって“身近なもの”を、この大学で学ぶことができるというのが第一印象として残っています。在学中に「障がい学生修学支援室」が設立され、今後入学してくる障がい学生の大学生活の基盤に繋がるような、多くのきっかけ作りに携われたことも思い出深い出来事です。
そのような大学生活の中でも最も印象的だったことは、3年次(2017年)の夏に開催されたデフリンピック(※2)への出場です。出場にあたり、学内でのPR活動や募金活動、個人、友人、友人の友人、教員・職員、学長と、最終的に大学全体から強いサポートをいただきました。そのサポートを良いプレッシャーに変えて、大学の代表、国の代表として国際舞台で活躍できたことは、一番の思い出です。
今の目標は世界一のデフサッカー選手になること。
聴覚障がいを持つ子供だけではなく、聴者の子供にも夢と希望を与えられるような人間になりたいです。
- ピアサポート(学生同士で支え合う活動)。本学の障がい学生修学支援室では、2017年にピア・サポーター制度を開設。ピア・サポーターとは、支援を必要とする障がいのある学生へのサポート活動に携わる学生のことで、主な活動はノートテイク、パソコンテイク、UDトークの修正など。活動を通じて学生同士が学び合う仕組みづくりを進めています。
- デフリンピックとは聴覚障がい者のオリンピックのこと。林氏は2017年7月にトルコで開催された「第23回夏季デフリンピック競技大会サムスン2017」に、サッカー日本代表として出場しました。大学では学内では林氏の遠征費の募金を実施し、栗田学長(当時)から壮行式で贈呈されました。
プロフィール
- 林滉大(はやし こうだい)
- プロサッカー選手
生まれつき耳が聞こえない先天性感音性難聴を持つ。
2015年、経済学部に入学。サッカー部での活動を続けながら、2017年には夏季デフリンピックのサッカー日本代表に選出された。
卒業後は、株式会社メルカリとアスリート契約を結び、現在はドイツSV der Bosnier Frankfurtでプレーを続けており、21/22シーズン(2021年8月~2022年6月開催)では30試合中22ゴールをマークし、リーグ得点ランキングで3位となった。

学内で行われたデフリンピック壮行会で
学生、教職員など約500人を前に挨拶をする林氏

現在はドイツSV der Bosnier Frankfurtでプレーを続けている
駒村 多恵からのメッセージ

「進むべき道に気づいた場所」
私の人生は亜大在学時に大きく動き出しました。
AUAP(※1)から戻り、平穏に過ごしていたある日。「野球部の祝賀会の司会をしてみないか」と職員の方が声をかけて下さったのです。「祝賀会が開催されるなら司会は学生から」という服部学長(当時)の希望があったことからたまたま巡ってきたお話でした。人生初司会。右往左往しながらも懸命に務めたところ、「今度、吹奏楽団の演奏会でどう?」「別れの広場(※2)で…」と居合わせた方から数珠つなぎに学内行事の司会の機会を頂きました。当時の私は周りの就職活動をよそに進路に迷っていた頃。次第に自分の進むべき道はこれなのではないか?と導かれたような気がして、遂に進路をフリーキャスターに定めたのです。
在学中に得た経験や学びは社会に出てから生かされることが本当に多いと実感していますが、カリキュラムだけでなく、多様な出会いにも感謝しています。
- 亜細亜大学アメリカプログラム(Asia University America Program)。
1988年にスタートした本学の伝統と実績のあるアメリカ留学プログラム。「生きた英語の習得」と「異文化理解」、そして「自己の新発見」を主目的とした独自の留学制度で、キャリア開発にも力を入れている。これまでに14,000人以上の学生が参加。 - 卒業祝賀会のこと。
プロフィール
- 駒村多恵(こまむら たえ)
-
フリーキャスター。
1993年、亜細亜大学国際関係学部に入学。
1997年卒業後、フリーリポーター、フリーキャスターとして各種テレビ番組、ラジオ番組に出演。様々なジャンルで活躍する一方、介護福祉士、介護食士3級の資格を持つ。

AUAP参加中、大学寮のロビーにて

AUAP参加中の一コマ
(留学先が同じ大学だった同級生プロカメラマン・岡本伸史氏撮影)
野口 健からのメッセージ

衞藤学長との約束
僕は1992年、国際関係学部に入学。一芸一能入試(※1)で「7大陸最高峰に登ります」と宣言し合格。その直後、学長室に呼び出されドキドキしながらノックしたら「入りたまえ」と。人生で始めて「たまえ」と言われた。主は衞藤瀋吉学長(※2)。「君は世界を相手に挑戦するんだな。一つ約束をしろ。山に登ったら、降りてこなければならないように大学に入ったら卒業することだ」と先制パンチ。圧倒され反射的に「約束致します!」。その2年後、南極大陸最高峰への挑戦を目前に資金調達に苦戦していた。直前になり200万円が足りず諦めかけていたら学長室に呼び出された。相変わらず仏頂面の衞藤学長がテーブルに封筒をポンッと置いた。何だろうと開けてみたら200万円。「いいから黙って持って行け!」と。一ヶ月後、登頂を果たし南極から連絡をいれたら「俺のポケットマニーが無駄にはならなかった」と喜んで下さった。亜細亜大学に訪れる度に衞藤学長の「たまえ」が聞こえてくる。
- 一芸一能入試
衞藤学長(当時)により取り入れられた入試形態の一つ。
この入試では「(芸術・芸能、競技、学術・学芸など)一つの資格・技能の獲得または社会的活動に向けた明確な目的意識を持って高校生活等を送ってきた、旺盛なチャレンジ精神を有する者」を求める学生像として挙げている。 - 衞藤瀋吉(えとう しんきち、1923年11月16日~2007年12月12日) 1987年~1995年まで、第4代学長を務めた。
プロフィール
- 野口 健(のぐち けん)
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アルピニスト。
1992年、一芸一能入試で亜細亜大学に入学。
1999年、エベレストの登頂に成功し、7大陸最高峰世界最年少登頂記録を25歳で樹立。
2000年からはエベレストや富士山での清掃登山を開始。ヒマラヤ遠征中にネパール大震災に遭遇し、「ヒマラヤ大震災基金」を立ち上げ、ネパールの村々の支援活動を行う。熊本地震においては、避難所としてのテント支援を行い、テント村の設置、運営などもおこなった。

亜細亜大学時代 自宅にて

エベレスト登山壮行会での野口氏(中央)と衞藤先生(右)(1997年)