2021.06.08

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亜大OB山本和行氏が始球式

「昔を思い出した」30数年ぶりに神宮マウンド

昨日(7日㈪)、第70回全日本大学野球選手権大会が開幕いたしました。開幕に先駆けて、70回の記念大会を記念し、歴代の記念大会(10回、20回、30回、40回、50回、60回)で最も活躍した選手から全日本大学野球連盟の推薦により、本学OB、元阪神タイガース投手 山本和行氏(昭和46年度卒)による始球式が行われました。数多くのスター選手の中から山本氏が選出されました理由は、大学球界の強豪校である、亜細亜大学硬式野球部を築く大きなきっかけとなった。第20回記念大会にて大活躍 の末、初出場、初優勝(日本一)に大きく貢献したことから選出されました。スター選手を多くの輩出している同大会で本学のOBが選出されたことは、本学にとっても大変名誉あることであります。

50年ぶりに亜細亜大学のユニホームに袖を通して投げての投球は見事ストライクでキャッチャーミットに収まりました。
 
<山本和行氏コメント>
「始球式という話をいただいた時にはびっくりした。あれから50年もたったかと思いましたが、神宮に来た途端、50年前の決勝戦での法大との戦いを思い出しました。いま思うとよく法大相手に勝ったなと思う。(きょうの投球は)全然やってなかったのでワンバウンドになるかなと思いましたが、ちゃんと届いてストライクにいったのでホットしました。
私らの50年前は、リーグ優勝して、初優勝(日本一)になりましたが、その頃は亜細亜大学の名前すら知らない人が多かったが、今では、亜細亜大学といえば、誰もが野球の強い大学やプロ野球選手をたくさん輩出していると言われるほど、全国でも名の知れた大学になったことが本当にうれしく思う。」と嬉しそうに話していた。
 
 

【山本和行氏プロフィール】

広島商業では1966年夏、第48回全国高等学校野球選手権大会に出場。しかし1回戦で桐生高校に1-3で敗退する。翌1967年夏も、広島県予選決勝で広陵高校に惜敗、甲子園出場を逃した。広陵高は甲子園で準優勝。

進学した亜細亜大学でも2年からエースとなる。東都大学野球リーグ戦では1971年春季リーグで4年振りに優勝。中大の高橋善正が持つ1シーズン9勝のリーグ記録に並び、最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインに選ばれた。同年の第20回全日本大学野球選手権大会では決勝で法大の横山晴久に投げ勝ち、亜大を初の日本一に導く。同年第2回明治神宮野球大会では初の東都リーグ対決となった日大に敗れ準優勝。リーグ通算63試合登板、33勝26敗、防御率1.83、351奪三振。

広島県出身の山本は広島入団を切望していたが、同年のドラフト1位で阪神タイガースに入団。当時の阪神は江夏豊、村山実、上田次郎、権藤正利ら一流投手が揃った投手王国時代で、山本は「カープじゃないのか」と思ったのと同時に「これは大変なところに行くことになった」と不安になったと述懐している。独自に研究していたフォークボールを武器に1年目から先発として起用される。1974年は32試合に登板、6勝を記録した。1975年から主にリリーフとして起用されるようになり、1976年には6勝3敗18セーブ、防御率2.92という好成績を残した。翌1977年にはリーグ最多の58試合に登板し9勝5敗9セーブ達し防御率3.71(リーグ7位)を記録。同年は新浦鈴木孝政と並びリ最多セーブ王となる。1976年10月11日の巨人戦では、王貞治にベーブ・ルースの記録を抜き通算715号本塁打を喫している。1978年から先発投手に転向し、1980年には15勝11敗2セーブを残した。1981年は7戦連続で打ち込まれ、降板という時期があり記者からの質問には「打たれない方法は投げないことやね」と返答していた。しかしシーズンの最終成績は12勝12敗1セーブ防御率3.30という成績で阪神のAクラス入り(3位)に貢献したその後、再びリリーフに転向し、1982年には15勝8敗26セーブ、40セーブポイントで最優秀投手賞のタイトルを獲得する。同年は防御率2.41(自己最高のリーグ3位)も記録した。1984年には10勝24セーブ、34セーブポイントで再び最優秀救援投手に輝き、セ・リーグを代表する抑え投手として君臨した。この1984年オフにメジャー移籍の話が持ち上がったが、阪神球団からの許可が降りずに断念している1985年には中西清起とのダブルストッパーで5勝11セーブをあげ、21年ぶりのリーグ優勝の原動力となる。このシーズンには通算100勝と100セーブをともに巨人戦で記録した。しかし、9月にナゴヤ球場での中日戦の試合前練習中にアキレスけんを断裂し、シーズン終盤は出場できなかった。翌1986年は11勝15セーブを挙げて復活。コーチ兼任となった1988年限りで引退。現役通算700試合登板は、2018年9月4日に藤川球児先発でも抑えでも好成績を残した。

引退後は朝日放送・サンテレビ解説者(1989年 - 1991年)を経て、広島で二軍投手コーチ(1992年,1995年)、一軍投手コーチ( 1992年‐1993年を務めた。在任中は紀藤真琴を先発に転向させ、能力を一気に開花させた。退団後はテレビ大阪解説者(1996年 -1998年)を経て、1999年からはNHK解説者を務めている。

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