AIやロボットが
引き起こす犯罪、
その責任はどこに?
引き起こす犯罪、
その責任はどこに?
#亜大の研究
山本 高子 准教授
法学部 法律学科
2026.10.01
シリーズ企画「面白くなければ学問じゃない!」では、亜細亜大学の教員陣の研究内容やエピソードを紹介します。第25回の特集は、法学部 法律学科 山本 高子准教授です。
「地下鉄サリン事件」が、私を刑法の世界へ導いた
私は最初、犯罪を捜査し、起訴・不起訴を決め、裁判で罪を問う検察官になりたいと思っていました。その思いは大学法学部に進学してからも変わらず、司法試験の合格を目指して勉強を続けました。
ところが、司法試験を受験したとき、自分でも意外な結果が待っていました。一番力を入れて勉強していたはずの刑法の成績が、最も振るわなかったのです。それが悔しくて、「もう一度、刑法を基礎から学び直したい」と考え、大学院へ進学しました。結果としてその選択が研究者への道につながりました。
研究を始めた頃は、話題になっているテーマや新しいトピックにも関心がありました。しかし勉強を重ねるうちに、刑法の土台となる理論を深く考えることの面白さに引かれるようになりました。現在、私が研究しているのは「因果関係」や「客観的帰属」といった刑法の基本理論です。一見すると難しそうな言葉ですが、「誰にどこまで責任を負わせるべきか」を考える、とても根本的なテーマです。
法学というと「法律を暗記する学問」というイメージを持つ人も多いかもしれません。しかし実際には、人間や社会について考え続ける、とても奥深い学問です。社会で起きている出来事を見つめ、人間とは何か、責任とは何かを考え続ける学問なのです。その問いに終わりがないところに、私は今も大きな魅力を感じています。
刑法には「正解」がない。だからこそ面白い
高校までの勉強は、歴史でも数学でも、どちらかといえば「正解」を覚えることが中心でした。私自身も法学部へ入学した当初は、できるだけ多くの「正解」を身に付けようと思っていました。しかし、刑法を深く学ぶにつれて、その考えは大きく変わりました。
授業では「この学説はこう考える」「裁判所はこのように判断している」と教わりますが、「では、どちらが正しいのでしょう」という問いに、先生は明確な答えを示してくれません。最初は戸惑いました。しかし学びを重ねるうちに、刑法には一つの正解があるわけではなく、さまざまな立場から議論が積み重ねられていることを理解しました。
犯罪は教科書どおりには起こりません。一つひとつの事件には異なる事情があり、誰にどこまで責任を負わせるべきかを慎重に考える必要があります。だからこそ、学説や判例は社会の変化に応じて発展します。その結果、私が学生だった頃に有力だった考え方でも、現在では見直されているものが少なくありません。
例えば、暴行を受けた人が逃げる途中で交通事故に遭って亡くなった場合、その結果は最初に暴行した人の責任なのでしょうか。それとも交通事故を起こした運転手の責任なのでしょうか。また、暴行を受けた人が倒れた後に第三者がさらに暴行を加えて死亡させた場合はどう考えるべきでしょう。実際の裁判でも、このような事例をめぐってさまざまな見解があり、現在も議論が続いています。
私は、行為者が結果に至るまでの経過をどこまで支配していたかという視点を重視しています。一方で裁判所は、「行為によって生じた危険が結果につながったか」という点を重視する傾向があります。同じ事件でも、どこに着目するかによって結論が変わり得るのです。
法律は「決まり事」ですが、裁判では数多くの事実を丁寧に積み重ね、人間の行動や社会の仕組みを多角的に考えながら結論を導きます。そこには、あらかじめ用意された唯一の正解はありません。
だから私は、授業でも「私の答え」を覚えてもらいたいとは思っていません。さまざまな考え方を知った上で、学生が「私は自分ならこう考える」と、学生自身の言葉で説明できる力を養ってほしいのです。
ニュースで事件を目にしたときも、「加害者だから厳しく罰すればいい」と結論を急ぐのではなく、「なぜこの事件は起きたのか」「法律はどのような考え方で判断しているのか」と一歩立ち止まって考えてみる。その積み重ねこそが、法学を学ぶ面白さにつながるのだと思っています。
授業では「この学説はこう考える」「裁判所はこのように判断している」と教わりますが、「では、どちらが正しいのでしょう」という問いに、先生は明確な答えを示してくれません。最初は戸惑いました。しかし学びを重ねるうちに、刑法には一つの正解があるわけではなく、さまざまな立場から議論が積み重ねられていることを理解しました。
犯罪は教科書どおりには起こりません。一つひとつの事件には異なる事情があり、誰にどこまで責任を負わせるべきかを慎重に考える必要があります。だからこそ、学説や判例は社会の変化に応じて発展します。その結果、私が学生だった頃に有力だった考え方でも、現在では見直されているものが少なくありません。
例えば、暴行を受けた人が逃げる途中で交通事故に遭って亡くなった場合、その結果は最初に暴行した人の責任なのでしょうか。それとも交通事故を起こした運転手の責任なのでしょうか。また、暴行を受けた人が倒れた後に第三者がさらに暴行を加えて死亡させた場合はどう考えるべきでしょう。実際の裁判でも、このような事例をめぐってさまざまな見解があり、現在も議論が続いています。
私は、行為者が結果に至るまでの経過をどこまで支配していたかという視点を重視しています。一方で裁判所は、「行為によって生じた危険が結果につながったか」という点を重視する傾向があります。同じ事件でも、どこに着目するかによって結論が変わり得るのです。
法律は「決まり事」ですが、裁判では数多くの事実を丁寧に積み重ね、人間の行動や社会の仕組みを多角的に考えながら結論を導きます。そこには、あらかじめ用意された唯一の正解はありません。
だから私は、授業でも「私の答え」を覚えてもらいたいとは思っていません。さまざまな考え方を知った上で、学生が「私は自分ならこう考える」と、学生自身の言葉で説明できる力を養ってほしいのです。
ニュースで事件を目にしたときも、「加害者だから厳しく罰すればいい」と結論を急ぐのではなく、「なぜこの事件は起きたのか」「法律はどのような考え方で判断しているのか」と一歩立ち止まって考えてみる。その積み重ねこそが、法学を学ぶ面白さにつながるのだと思っています。
AIやロボットに「責任」は問えるのか
近年、授業や講義の中で学生からよく出る質問があります。それは、「AIやロボットは犯罪者になり得るのか」というものです。
例えば、自動運転車が事故を起こした場合、その責任は誰にあるのでしょうか。運転していた人なのか、それとも車を設計したメーカーなのか。あるいは、AIが自律的に判断して行動した場合、その結果を誰の行為として評価すべきなのでしょうか。
こうした問題は、もはや空想の話ではありません。実際に社会の中で起き始めている現実的な課題です。
刑法では、基本的に「人間の行為」を前提に責任を考えます。つまり、意思を持ち、行動を選択できる主体であることが前提となっています。その意味で、現時点のAIやロボットは、法律上の「行為者」として扱うことはできません。
しかし一方で、AIが高度に自律化し、それぞれの意思によって人間の予測を超えた判断を行うようになったとき、その結果をすべて、AIを作った人間の責任としてよいのかという問題が生じます。生成AIが誤った情報を出力し、それをもとに誰かが損害を受けた場合、その責任は誰にあるのでしょうか。開発者なのか、利用者なのか、それともAIそのものに問題があるのか。現時点では明確な答えはありません。また、AIが責任を問える対象となったとき、刑罰をどうするかという問題も出てきます。
このように、技術の進歩は常に法律に新しい問いを投げかけます。私自身、この分野の研究を通じて強く感じるのは、法律は決して過去の事件だけを考えるものではないということです。むしろ、これから起こるかもしれない社会の変化に対して、あらかじめどのように備えるかを考えることも大切なのです。
AIやロボットをめぐる問題は、その最たる例でしょう。人間と機械の境界が曖昧になっていく中で、「責任とは何か」「行為とは何か」という根本的な問いが、改めて問われています。
学生たちには、こうしたテーマに触れたとき、「難しそうだ」と距離を置くのではなく、「自分ならどう考えるか」と一度立ち止まって考えてほしいと思っています。その思考の積み重ねが、法律を学ぶ力そのものになっていくからです。
例えば、自動運転車が事故を起こした場合、その責任は誰にあるのでしょうか。運転していた人なのか、それとも車を設計したメーカーなのか。あるいは、AIが自律的に判断して行動した場合、その結果を誰の行為として評価すべきなのでしょうか。
こうした問題は、もはや空想の話ではありません。実際に社会の中で起き始めている現実的な課題です。
刑法では、基本的に「人間の行為」を前提に責任を考えます。つまり、意思を持ち、行動を選択できる主体であることが前提となっています。その意味で、現時点のAIやロボットは、法律上の「行為者」として扱うことはできません。
しかし一方で、AIが高度に自律化し、それぞれの意思によって人間の予測を超えた判断を行うようになったとき、その結果をすべて、AIを作った人間の責任としてよいのかという問題が生じます。生成AIが誤った情報を出力し、それをもとに誰かが損害を受けた場合、その責任は誰にあるのでしょうか。開発者なのか、利用者なのか、それともAIそのものに問題があるのか。現時点では明確な答えはありません。また、AIが責任を問える対象となったとき、刑罰をどうするかという問題も出てきます。
このように、技術の進歩は常に法律に新しい問いを投げかけます。私自身、この分野の研究を通じて強く感じるのは、法律は決して過去の事件だけを考えるものではないということです。むしろ、これから起こるかもしれない社会の変化に対して、あらかじめどのように備えるかを考えることも大切なのです。
AIやロボットをめぐる問題は、その最たる例でしょう。人間と機械の境界が曖昧になっていく中で、「責任とは何か」「行為とは何か」という根本的な問いが、改めて問われています。
学生たちには、こうしたテーマに触れたとき、「難しそうだ」と距離を置くのではなく、「自分ならどう考えるか」と一度立ち止まって考えてほしいと思っています。その思考の積み重ねが、法律を学ぶ力そのものになっていくからです。
「正解のない問い」を楽しんでほしい
最後に、これから大学で学ぼうとしている皆さんに伝えたいことがあります。それは、「正解のない問いに向き合うことを、ぜひ楽しんでほしい」ということです。
高校までの勉強では、正しい答えを早く見つけることが重視される場面が多いと思います。しかし大学での学びは、それとは少し違います。
刑法の世界でも、ある事件について「特定の人が一方的に悪い」と一言で片付けることはできません。どこまでが行為の結果なのか、どこからが別の要因なのか、どのように責任を分けるべきなのか。そうした問いに対して、さまざまな考え方を比較しながら、自分なりの答えを探していくことになります。最初は難しく感じるかもしれません。しかし、だからこそ面白いのです。
例えば、ニュースで事件を見たとき、「なぜこんなことが起きたのだろう」と考えることがあります。そのとき、すぐに結論を出すのではなく、「別の見方はないだろうか」「法律はどのように考えるだろうか」と想像してみる。その積み重ねが、法学を学ぶ力につながっていきます。
大学での学びは、知識を増やすことだけが目的ではありません。物事を多角的に捉え、自分の頭で考える力を育てることに大きな意味があります。そしてその力は、法律の世界に限らず、社会に出てからも必ず役に立つはずです。
これから法学部を目指す皆さんには、ぜひ「分からないことを楽しむ姿勢」を持ってほしいと思います。すぐに答えが出ない問いに出合ったときこそ、学びが深まる瞬間です。
刑法学は、人を裁くための学問であると同時に、人間とは何かを考え続ける学問でもあります。その奥深さと面白さを、大学でぜひ一緒に味わってもらえたらうれしく思います。
高校までの勉強では、正しい答えを早く見つけることが重視される場面が多いと思います。しかし大学での学びは、それとは少し違います。
刑法の世界でも、ある事件について「特定の人が一方的に悪い」と一言で片付けることはできません。どこまでが行為の結果なのか、どこからが別の要因なのか、どのように責任を分けるべきなのか。そうした問いに対して、さまざまな考え方を比較しながら、自分なりの答えを探していくことになります。最初は難しく感じるかもしれません。しかし、だからこそ面白いのです。
例えば、ニュースで事件を見たとき、「なぜこんなことが起きたのだろう」と考えることがあります。そのとき、すぐに結論を出すのではなく、「別の見方はないだろうか」「法律はどのように考えるだろうか」と想像してみる。その積み重ねが、法学を学ぶ力につながっていきます。
大学での学びは、知識を増やすことだけが目的ではありません。物事を多角的に捉え、自分の頭で考える力を育てることに大きな意味があります。そしてその力は、法律の世界に限らず、社会に出てからも必ず役に立つはずです。
これから法学部を目指す皆さんには、ぜひ「分からないことを楽しむ姿勢」を持ってほしいと思います。すぐに答えが出ない問いに出合ったときこそ、学びが深まる瞬間です。
刑法学は、人を裁くための学問であると同時に、人間とは何かを考え続ける学問でもあります。その奥深さと面白さを、大学でぜひ一緒に味わってもらえたらうれしく思います。
#亜大の研究