経済学部

2020.12 取材

ずっと疑問に思っていた、世界の経済格差。
亜細亜大学で自由に学び、行動できたことで、
この30年、カンボジアの復興期をともに歩むことができました。

ずっと疑問に思っていた、世界の経済格差。
亜細亜大学で自由に学び、行動できたことで、
この30年、カンボジアの復興期を
ともに歩むことができました。

株式会社クラタペッパー創業者

倉田浩伸

経済学部 経済学科 1994年度卒業

高校生の頃から先進国と発展途上国の経済格差に関心を持っていた倉田さんは、大学2年の後期、1990年の10月にアメリカへ留学します。留学中に湾岸戦争が勃発。戦争当事国に身を置くことで「日本人として世界にどう貢献していくのか」という課題を深く考える機会を得ました。その後、当時の学長が設立した国際貢献団体JIRACに参加し、内戦終了直後のカンボジアへ。それから約30年。紆余曲折を経て、カンボジアの幻の胡椒を復活させた「クラタペッパー」の創業者としてカンボジアと日本でのビジネスを展開しながら未来のカンボジアを担う世代の育成に携わる倉田さんに、自身の原点を振り返ってもらいました。

経済学部 経済学科を
選んだワケ

理系が得意だったのですが、一方で社会学にも興味がありました。私の強い関心は「南北の経済格差」。この格差をどう解決していけるのかを学びたくて、人々の行動を数値化して社会を分析する経済学部に注目しました。またアジアについて深く学べる環境であること、そして英語のカリキュラムが豊富で海外留学(AUAP)できるということも亜細亜大学の大きな魅力でした。

倉田さんの亜大ハイライト

  1. 日本という恵まれた国に生まれた自分を自覚した思春期
  2. 「経済格差」への問題意識から経済学部へ
  3. アメリカのウェスタンワシントン大学へ。留学中に湾岸戦争が勃発
  4. 内戦終了直後のカンボジアへ
  5. カンボジアでの就職を模索
  6. カンボジアで起業。絶滅寸前の「胡椒」との出会い

日本という恵まれた国に生まれた
自分を自覚した思春期

日本という恵まれた国に生まれた
自分を自覚した思春期

What experiences helped you to grow?01

小学生の頃から政治や社会に関心を持っていた倉田さん。そんな彼の人生に強く影響を与えたのは、中学3年生の時に交通事故で4歳違いのお兄さんを失ったことでした。「人生は一度しかない」現実を目の当たりにし、非日常に自分を投じる決意をした倉田さんは、ご両親に頼みこんでオーストラリアでの語学研修に参加し、ファームステイも体験。その帰路で、生涯忘れられない光景を目にしました。

「帰りの飛行機が香港経由だったのですが、そこで水上生活者の姿や九龍城砦*のスラム街を見て、ものすごくショックを受けました。両親に反抗ばかりしていたけれど、日本という国で何不自由なく育ててくれて、自分はなんと恵まれているんだろうと……自然と涙がばーっと出てきて『ありがとう』という気持ちになったんです」

*九龍城砦:香港の九龍城跡地に無秩序に建てられた高層ビルを中心としたスラム街。

「経済格差」への問題意識から
経済学部

「経済格差」への問題意識から
経済学部

What experiences helped you to grow?02

語学研修から半年後に観た一本の映画、『キリング・フィールド』。アメリカ人ジャーナリストの実話をもとに内戦時のカンボジアを舞台にした映画です。この映画も、倉田さんの生き方を大きく変えることになりました。

「実話に基づいた映画だということにまず驚きました。そこからカンボジアという国に強く関心を持つようになったんです。なぜ戦争になったのか。劣悪な環境に暮らさざるを得ない虐げられた人々が決起すれば、それまで虐げていた人たちを排除しようとするのは必然です。格差が争いを生むのだということに気づきました」

カンボジアへの関心をきっかけに、倉田さんは世界が抱える経済格差に強い問題意識を持つように。これが亜細亜大学への入学動機とつながっていきます。

入学後、1年次に履修した「倫理学」の授業で『戦争の是非』をテーマに学び、平和を理想論で片付けず、実現していきたいと強く思うようになります。

アメリカのウェスタンワシントン大学へ。
留学中に湾岸戦争が勃発

アメリカのウェスタンワシントン大学へ。
留学中に湾岸戦争が勃発

What experiences helped you to grow?03

2年生の10月、アメリカのウェスタンワシントン大学への留学(AUAP)を果たした倉田さん。留学は翌年2月までの5ヶ月間でしたが、その最中、突如として湾岸戦争*が勃発します。緊迫感が高まるアメリカ国内の様子を、倉田さんはよく記憶していました。

「召集の可能性があるアメリカ人のルームメイトから『日本人はお金を出すだけで人的貢献をしていない』と言われたんです。その言葉が忘れられなくて……私は日本人として、必ず人的貢献をしてみせる、とその時に決意したんです」

その言葉通り、アメリカから帰国後には紛争や自然災害による被災地・被災者への救援活動を行う国際貢献団体JIRAC(日本国際救援行動委員会)*に参加し、4年次の8月にはいよいよカンボジアへと赴くことになります。

*1990年8月2日、イラクによるクウェート侵攻をきっかけに、アメリカを中心とした多国籍軍がクウェートからイラクを撤退させるために起こした国際紛争。
*JIRAC(日本国際救援行動委員会):直接的な国際人道支援を行うことを目的に、1991年に設立された団体。

内戦終了直後のカンボジアへ

内戦終了直後のカンボジアへ

What experiences helped you to grow?04

1992年当時、カンボジアは前年のパリ和平協定*調印でようやく内戦を終え、復興の日々を送っていました。到着後は難民の帰還プロジェクトのスタッフとして働くことになっていたのですが……。

*パリ和平協定:1991年10月、カンボジア和平について参加19ヵ国により調印された。

「現地入り早々にお腹をこわしてしまって。身体は丈夫なつもりだったのに、まずそこで挫折を味わいました。加えて最初に配属された給食センターでは、その衛生状態が受け入れられず、体調を崩して配置換えに。次に回された事務仕事では古いタイプライターを使いこなすことができず、またもや挫折してしまったんです。大学4年間でいろんな職種をアルバイトで経験してきて、どんなことでもできる自信があったのに、見事にそれを打ち砕かれました」

挫折に次ぐ、挫折の中、倉田さんは「自分は日本という社会に生かされてきただけで、自らの力で“生きる”ことをしてこなかった」現実に愕然としました。

カンボジアでの就職を模索

カンボジアでの就職を模索

What experiences helped you to grow?05

自分ができることは何か。何かしらをやり遂げたいという思いを募らせる倉田さん。次に任された業務では、日本から船で送られてきた救援物資の通関手続きのサポートにあたりました。

ここでは現地のスタッフとの日常的な交流がスムーズな業務遂行に欠かせないことを学んでいきます。日頃からのコミュニケーションが信頼関係を築くことに気がついたのです。

倉田さんは少しずつカンボジアの現地に溶け込んでいき、この国の人たちの生き方に魅せられていきます。

「電気もガスも水道もなくても、苦にすることなくみんな幸せそうに楽しく生きてるんですよ。生活の知恵をたくさん持っていて、みんな助け合って生きている。戦争のためにそうせざるを得なかったのかもしれません。しかし、そんなカンボジアの人たちの生きる強さに感動しました」

一方で、「一度も学校に行ったことがない」という同じ歳の男性と難民キャンプで出会い、心底驚いたという倉田さん。当時、カンボジアでは内戦のために学校に通うことができなかった人が多く存在していました。大学で教職課程をとっていた倉田さんにとって「教育」の重要性は自明のことでした。ちょうど学校建設に着手し始めたJIRACの活動に合流したことで、一生をかけてカンボジアの復興に携わる決意を固めることになります。活動を継続するために倉田さんは現地での就職先を探しますが、思うような就職先が見つからず、ついには自分で起業することに。それはなんと卒業前のタイミングでした。

カンボジアで起業。
絶滅寸前の「胡椒」との出会い

カンボジアで起業。
絶滅寸前の「胡椒」との出会い

What experiences helped you to grow?06

まず手始めに、カンボジアの農産物を日本に輸出することを考えた倉田さん。日本では目にしない美味しい果物を探して、店頭を巡りながら店主からの口利きで産地を訪ねるなど地道なリサーチを積み重ねました。そのなかで唯一、輸出可能となったドリアンを空輸で日本に運んだのですが、強烈な匂いのせいで航空会社から早々に「ドリアン禁止」の厳命を受けてしまいます。さらにココナッツの輸出にも失敗し、途方に暮れていた時、思いがけず母親方の親戚からある資料を預かります。それは内戦前のカンボジアの農業に関する資料でした。そこに「胡椒」の記述を発見したのです。

「実は、その親戚はカンボジアとの事業を内戦前に行っていたそうなんです。そんなことは初耳でびっくりしましたが、その貴重な資料がとても役に立ちました。資料によって、かつてカンボジアが世界有数の胡椒の産地であったことを知り、胡椒なら乾物なので輸出も容易ではないかとひらめいたのです」

在来種の胡椒を生産する地域を訪ね歩き、胡椒の原木を3本と伝統農法で栽培できる地域を発見した倉田さん。ついに胡椒販売でカンボジアと世界をつなげる「クラタペッパー」を開業しました。以降、伝統農法を踏襲し、自然環境を壊さない方法で胡椒の生産を行っています。

とはいえ胡椒の輸出も最初は苦戦の連続でした。売上は伸びず、現地で採用したスタッフとの信頼関係も築けず四苦八苦の日々を過ごす倉田さんに再び転機が訪れます。秋篠宮ご夫妻のカンボジア訪問の際に、秋篠宮殿下と直接言葉を交わす機会に恵まれ、農業に関心のあった殿下から「手土産に胡椒がほしい」とのリクエストを受けたのです。

「そのお言葉を受けて、胡椒を輸出するだけでなく、カンボジアを訪れた観光客にお土産として販売することを思いついたんです。絵心のある妻が胡椒のパッケージをお土産用に一新し、さらに売上が向上。やっと事業が軌道に乗るようになりました」

現在、胡椒ビールの開発など、さらなる商品開発に邁進する倉田さんですが、コロナ禍の影響で久しぶりに日本に長く滞在しています。今の日本に感じることを最後に聞いてみました。

「こんなに豊かな国なのに、なんでこんな貧しい生活を多くの人が強いられているんだろう、と率直に思います。お金に縛られてしまうと、豊かな気持ちにはなれない。カンボジアの人たちはお金はないかもしれないけれど、気持ちは豊かだと感じます。お金は人間がつくった道具に過ぎなくて、お金に使われてちゃいけない。

お金は天下のまわりもの。お金がなくても生きられる生き方を見つけましょう。そのためには都市に集中するのではなく、地方を再生しながら地方で生きるということを、もっとみんなが考える必要があるかもしれません。変えなくてはいけないことが、山盛りだと感じています」

Q今後の目標を教えてください。

私は胡椒ビジネスをやっていますが、それは本当の意味で「カンボジアを救いたい」という思いから。胡椒産業が国づくりを支え、これから先もずっと続いていけるようにしていきたいと思っています。日本ではこれまでもカンボジアで経験してきたことやSDGsについて講演でお話してきましたが、今後も未来を担う若い世代に向けて、自分が経験してきたことを伝えていきたいと思います。

Q受験生へのメッセージを
お願いします。

自分の好きなことをやりましょう。嫌いなことをイヤイヤやるから続かないのであって、好きなことなら苦しくても続けることができます。私はたくさんのことに挑戦してきた中で、好きなことを見つけ出しました。あとは自分の良心に従って、好きなことに好きなだけ、とことん取り組んでください。